震災以降に読んで一番納得感があって、その後の僕が平常心を獲得する、僕の不文律をつくったと言ってもいい文章があります。でもなぁー、ちょっとな、自分の先生の文章だからなぁ、格好悪いなぁーおれ。と思わんでもないんだけど。さっきちょっとしたことがあったので記録も兼ねて紹介しておきますよっと。
それでは、青コーナー、千葉県は銚子出身、音楽家、菊地成孔さんの昨年2011年3月16日の日記(当時は速報、と呼ばれていたんじゃなかったけな)です。
以下ちょっとだけ引用します。出来ればリンクを辿って全文を読んでみてください。
つか、菊地さんがこれ見たらちょっと嫌だな(笑)
愛する家族を手をつないで逃げたのに、自分だけが助かってしまった老人も、何千もの水死体であり礫死体であるような肉と骨の山を目撃してしまった幼児も、一瞬で粉微塵になってしまった人も、何日ももがき苦しんで死んだ人も、よく出来たカフェオウレを飲んでため息をついていた人も、角ハイボールの18杯目でゲラゲラ笑いながら飲んでいた人も、すべてが遍在であり、つまりはワタシの一部であり、誰かの一部であり、全体を構成しているのだという感覚。自殺しようと首に縄をかけた瞬間に地面が割れた人もいる筈です。とうとう告白し、震える唇が重なり、狂うかというほどの多幸感を感じた瞬間に奈落に落ちた人もいる筈です。人を刺そうとして包丁を構えた瞬間に壁が倒れて来た人もいる筈です。刺し終えて、殺人を犯した瞬間に海面がせり上がって来た人もいる筈です。殺人を犯し、何十年も逃亡し、生きた心地がしない毎日のなかのある日、大地が波打ち始めた人もいる筈です。バチカンに祈りを飛ばした人、発狂した人、あらゆるすべてを持ちこたえた人、すべてが遍在です。そうでないと、どうしてあの人は助かったのにオレは助からなかったのか?あるいはその逆。という問いに対する答えが、運命論だけに収斂されてしまう。運命は別個に存在しますが、遍在性とはまったく次元が異なります。
http://www.kikuchinaruyoshi.net/past-diarys-06-04-11-05/2011/mar/
これを読んで以来、たしかにそうだ。死も生も日常に偏在するのだ。と思えるようになりまして。あったりまえのことっちゃそうなんですが。
その分「今やれることはやろう。まず自分の為に」と。いろんなことに対して自覚的でいよう。と心がけるようになりました。その分本当に大事にこととか、大事な人とかは明確になりましたしね。あとね、当時も今も続いてる人を見受けますけど、原発が怖いとか人の恐怖を煽るような真似をしたり、人に煽られて平常心を失なったりすることは、ええとあんまり有意義ではないと思うのでやめてください(笑・人を煽る行為と不安を振り撒く行為は同じな!! まったく同じ!!)
僕も、まちがいなく死ぬし(笑)、そこの貴方もまずまちがいなく死ぬ。そういうものが偏在してるのだ。と、まああんまりグダグダ書いててもしかたないのですけどね。死生観ってのはどっかで獲得しておいたほうがいんだろうな、と思ってましたが、僕はそれが2011年でしたね。41になってようやく。
で他人に対しても、生き死に対して特別なことだ。としてしまうとどうしても平常心でいられなくなるよねと。もちろんとても悲しいことだと思うんすよね。もう声も聞けないことも、逢えないことも。でも特別なことにしちゃーイカンのではないかと。
ま、特になにがいいたいわけではないのですが、この文章探しながら自分のブログの当時の文章みたら、、、、
タダの頭のおかしい奴の文章にしか思えないものがあった事に驚愕した!!!
ということだけお伝えしておきたいと思います(笑)。
