お恥しながら、いろいろ重なって3/27の日曜くらいからパニックが始まり三日目くらいがそのピークでした。いやもう面目ない。その間、いしたにさんに罵倒され(笑)、コグレさんに銀河鉄道に乗せられ(笑)、Cheebowさんにテレビとネットを禁止され(笑・実際は見ないこと推奨され)、実は山辺のマッチポンプ(笑)だった。という本当にいい友人を持ってることに感涙を禁じ得ません。
で、なにで不安になったかという内容は書きません(別の人が不安になるかもしれないからね)が、その理由は原発とかそういう単純なものではなく複合的なものの積み重ねなんだな、ということにハタと気がつきました。なにせ生きてきてこんなに不安や心配をしながら過した経験が一度もない幸せな人生だったので、気がついたときにはパニックだったという。
さて。そんななか考えてたことがありまして。
基本的にパニックを容認することはまず僕等の社会は原則できないんじゃないかと。いやでも牛乳、卵、ミネラルウォーターの買占め、原発周辺への風評などを見るに、パニックは集団の現象なのでそれ起す個々を責めることも同時にできないです。となると、起きたこと考えるよりもそこからより良い今後のあり方を考えないとならないだろう。と考えました。
基本原則は「私たちの社会はパニックを容認することが出来ない仕組みになっている」という立場で話を進めます。その理由は旨く言えないんですが、大体次のような事が理由です。
- わたしたちの社会は都市の経済活動を中心に仕組みが作られています。
- 都市には本来許容できる以上の人が本来許容できる以上の経済活動を行なっています。
- なので、パニックが起きた場合には本来許容できる以上のパニックが起きます。
- その結果、都市にダメージ生れる場合には、想像以上のダメージが起きると予想します。
今回の津波の被害になどで直接街や都市の機能を失なっている。という非常事態はまた別なのですが(そもそもの前提である正常な都市機能というもの自体が崩れるので)、少なくとも今回の震災のなどの東京や関東など被害が大きくなかった(少なくとも都市機能に不全が発生するような被害がなかった)地域の人には、他の「被害が大きい人々の」為にもパニックを容認することはできないだろうと。
さて、先週、友だちと飲みにいっていろいろ話したんですが、その方静岡出身なんですね。で、地震の時にどうだった? と尋ねたところ次のような返事かえってきました。
「みんながエレベーターに乗ろうとしてるから止めた。机の下に入るように指示し自分もそうした。ビルからすぐにでないほうがいいので待機するように指示した」と。はい、これ多分僕等全員知ってると思うんですよ。だってみんな避難訓練したでしょ? で、この話も主も「あったりまえじゃん」っていうんですね。でもこの当たり前のことを普通にやる。というのが、、、
凄い難しい!! 特に非常時には!!!
今回僕も会社にいるときに地震が来て不安になったスタッフが早くビルの外に出たがるのを止められなかったんですね。一応、いろいろ考えたんて判断はしたのですが、実際はどうあても「地震が納まるまでは出るな」一択なんですよ。だって、ビルが揺れるから怖いってのはわかるけど、そんなんで崩れる地震なら外でもあぶねーよ。って。
でも出来ないもんですよね(笑)「出るな」っていうの。今回は特に地震が長かったから正直僕も「根負け」した。
で考えたのですが、この静岡出身の人と僕の違いがなんだったのか? 簡単に言うと、、、
訓練の違い。
なんですよね。片や地震エリート(笑)静岡県出身(ググルと静岡の地震に対する構えが沢山読めるとおもいます)ですからね。幼いときからの訓練が違います。ずっと身にしみてやってきた訓練が自動的に発動、、、Σはっ!! これってどっかで聞いた気が!!! もしかしてこれって、、、あのトルシエやオフトが言っていた、、、
オートマティズムじゃん!!
フィリップ・トルシエが好んで使う言葉に「オートマティズム」がある。チームが集団的に力を発揮するために持つ、連動性、意識のシンクロ、約束事、そんな概念を総称してオートマティズムと呼んでいるようだ。
あたりまえですが、僕等の社会で僕等が全員恣意性発揮しまくって、活動したらあっというまに社会のはおかしくなりますよね。なので、池田清彦先生の構造主義科学論での恣意性の発揮の原則「恣意性は誰もが発揮できる権利である。ただし他人の恣意性の発揮を阻害しない限り」という原則からいっても、先ほどのパニックを容認できない社会であれば「得手勝手な振舞いはできないはず」なのです。
ただ、このオートマティズムはオシムに言われれば、、、
結婚して四〇年になるが、まだ家内との間にオートマティズムというのはない。それなのに
選手はわずか二~三カ月でどうやってオートマティズムが生まれるというのだろう?
(2006年10月、ガーナ戦後の記者会見)--『オシムの伝言』より
と発揮できるようになるために年月がかかる!!!
今回、ネットで読んだ記事である津波の被害あった地区で、小学生が全員逃げて無事だったというニュースがありました。
市内の児童・生徒は地震発生時、下校の直前で教室にいた。児童・生徒らは警報と同時に、避難を開始し、各学校はあらかじめ決めていた徒歩5~10分の近くの高台にそれぞれ避難した。ところが高台から市内に押し寄せる津波の勢いをみて、さらに後背地の高台に移動した。この間、中学生が不安がる小学生を誘導し、迅速に避難したという。大槌(おおつち)湾からわずか約800メートルの市立鵜住居(うのすまい)小周辺は壊滅状態だったがほぼ児童全員が無事だったという。
この記事を結局先の静岡出身の友人もこの小学生も普段から訓練していて「あたりまえじゃん」ということをみんなやったんですね。本当泣けるほど素晴しいですが、これ僕等東京の人も同じようなことができませんか?
我々が都市の暮しや経済を守ることはとても大事です。
それはなぜかというとこの国が都市の機能を保つこと中心に作られているからです。それによって地方の経済も同期していくわけです。もちろんそうじゃない社会を目指していくことことはこれからはできますし、これが良いということではなく、現状そういう「現実的な制約」なんですね。なので、そこを崩さないには、パニックになって買占めたり、無闇矢鱈に自粛をしたりすることが本当にいいことんなんでしょうか?
これから僕等が先の小学校の生徒のような素晴しいオートマティズムを発揮できずに、
- 余計な買占めをしたり
- 原発を不必要に恐れたり(怖いから恐れる、というのは感情なので仕方ないんですが、実質恐れてもあんまり意味がないってこということです。それはそれでまた書くつもりです)
- 善意か悪意かデマを流してしまったり
- 変に自粛して経済を停滞させてしまったり
してしまっていいんでしょうか? 特に僕も今回は色々な失敗をしてしまったりすることもありました。多分みなさんもそれなりにあったとおもうですよねー。なので、今回は僕が一番学んだのは次のことです。これが僕の「オートマティズムの素」です。
「非常時になればなるほど、僕の行動や僕の生命は僕だけのものではない」
というのが僕の原則です。僕が一人自分かってな行動をしたり、僕だけの命を大事にしたり(それはすごく難しいことでもあるのですが、原則としては僕等の社会ではこういうことだとおもいます。簡単に例を上げると、心配だから被災地にいく > 渋滞がおきる > 緊急車両が通れない > その為に手遅れになった人が死ぬ。とかね)することは現代社会ではとっても難しいんだと思います。もちろん、誰もいない無人島で生きるか死ぬかの状態とか、今回の津波みたいに「全員もうヤバい」状態ならそれは必死に生き残ることを考えるのが正しいですけど、それは非常時じゃなくて絶対絶命なので出来事のスケールがさらに一つ上ですからね。
今回、放射性物質が水道から発見された。というときに、水の買占めが起きました。あれはパニックが引き起すオートマティズムです。だからこそ僕等はパニックにアゲインストするオートマティズムを発揮しないとならないんじゃないしょうか? 例えば「知り合いの赤ん坊の顔や自分の子供が赤ん坊だったときのことを思い浮べてみる」とかね。被災地の人なんて、生き残ったあとにニュースになるくらいのすばらしいディシプリンを発揮してましたよね。僕等もあのディシプリンが必要なんじゃないかな。
その為には結局、教育しかないのだろうと思います。
いまは道徳の時間って小学校にないんだっけ? 哲学って何歳から学ぶのかな。
これは今回の原発の問題と同じように直ぐに解決する問題ではありません。そして今回の原発や地震と同じようにこの国に生きている限り直面しつづける問題でもあります。どちらにせよ、今からでも手をつけていく価値がある問題だと僕は思いますが、本当にどうなるかは皆がどういった社会を目指していくか? というかを考えるということに掛っています。
さて、どういう社会が本当にいい社会なんでしょうか。
あんまり纒まらなかったけど、丁度、週末には選挙あることだし、僕ももう一度良く考えてみることにします。


